旅行でお金を使いすぎたかもしれないと思いました
家族で楽しみにしていた、2週間の海外旅行。
アメリカを経由して、コスタリカへ向かいました。
見たことのない景色を家族で見られることが、私はとても楽しみでした。
ところが旅の途中から、支払いをするたびに、身体が少しずつ固くなっていきました。
食事も、ガソリンも、体験も、思っていたより高い。
カードを使うたびに、まだ見えていない金額まで一緒に膨らんでいくように感じました。
航空券やホテルを含めると、いつもの旅行予算より、20万円ほど多くなる見込みでした。
息子が楽しそうにしているのに、私の頭の中には、何度も同じ言葉が浮かびました。
こんなに使って、大丈夫なのだろうか
楽しみたい私と、止まりたい私がいました

せっかく家族で海外まで来たのだから、楽しまなければ。
今の息子と来られるのは、今しかないのだから。
そう思う私がいる一方で、これ以上お金が減るのが怖くて、どこかで止まりたい私もいました。
楽しもうとするほど、不安が邪魔をする。
不安になるほど、家族の時間を台無しにしているように思える。
そして私は、怖がっている自分にまで言っていました。
自分で決めた旅行でしょう
こんなことで不機嫌にならないで
せっかくの時間を壊さないで
人は、楽しみたくないから不安になるのではないのだと思います。
目の前の楽しさも、その先に続く暮らしも、どちらも失いたくないから迷うことがあります。
けれどあのときの私は、そんな自分を旅を楽しめない困った人のように見ていました。
ただでさえ怖いのに、自分まで自分を責めたら、怖がっている私は、自分の中で一人になってしまいます。
何か起きるたびに私が悪かったと考えていた頃のことは、こちらの記事に綴っています。
怖さの隣に座ってみる
私は、不安を消そうとするのをやめて、自分に尋ねてみました。
怖くなったんだね。何がそんなに心配なのだろう
すぐに、きれいな答えが出てきたわけではありません。
それでも急がずにいると、怖さの奥にあったものが少しずつ見えてきました。
家族の暮らしを守りたい。
何にいくら使うのか、納得して選びたい。
自分だけで、家族のお金への責任を背負いたくない。
旅を楽しみたい。でも、帰国したあとの安心も失いたくない。
怖さは、私を困らせるために現れたのではありませんでした。
それは、私が大切にしたかったものを、必死に守ろうとしていたのだと思います。
人の不安や苛立ちの奥には、ときどき、言葉にならないまま何かを守ろうとしている姿があります。
そう見えると、こんな自分は嫌だというまなざしが、何を守ろうとしているのだろうというまなざしに変わります。
安心すると、まなざしが変わる。
そのまなざしの中で、私はようやく、怖さと一緒に現実を見ることができました。
夫は、私を問題にしませんでした
旅の途中で私が怖くなり、イライラしても、夫は怒りませんでした。
私をせっかくの旅行を台無しにする人にも、お金のことばかり気にする人にもしませんでした。
そのことに、私はずいぶん助けられました。
相手が余裕を失っているとき、私たちは、その人の反応をその人自身だと思ってしまうことがあります。
不機嫌な人。
面倒な人。
楽しい空気を壊す人。
けれど、人は問題そのものではありません。
怖さでいっぱいになりながら、それでも大切なものを守ろうとしている途中なのかもしれません。
夫が私を責めなかったから、私は自分の不安を隠したり、全部よかったと無理に正当化したりせずに済みました。
人は、責められないと分かったとき、初めて自分にとって都合の悪い現実にも目を向けられることがあります。
一人で抱えなくてよいと思えたとき、私は残りのお金を確かめようと思いました。
見えない恐怖が、家族で考えられることに変わった

残りの旅行費を確認しました
旅費のうち、航空券やホテルなどは、すでに支払いを終えていました。
残りの日程で必要なツアー代やガソリン代、食費などを確認すると、総額の目安が分かりました。
借金をしなければならないわけではない。暮らしに必要なお金までなくなるわけでもない。私たちは帰国後も働き、また少しずつ育てていける。
数字を見た途端、旅費が安くなったわけではありません。
それでも、
このまま、どこまで減るのだろう
という終わりのない恐怖が、
残りの日を、何にお金を使って過ごしたいか
という、家族で考えられることに変わりました。
安心とは、心配がなくなることではないのかもしれません。
心配があっても、現実を一緒に見られること。困ったときに、相談し、選び直せる場所が残っていること。
その安心が戻ると、数字は私を裁く判決ではなく、ここから考えるための情報になりました。
「高かった」と「行ってよかった」

帰国してからも、私は旅に使ったお金のことを考えました。
いつもの予算より20万円多かった。
もっと安くできたものもあったかもしれない。
それでも、家族で行ってよかったと思っています。
今の息子だから見せてくれた表情がありました。
知らない道に緊張しながら進んだことも、その土地の食事を一緒に味わったことも、間違えながら人と通じ合って笑ったことも、今の家族でしか持てなかった時間でした。
以前の私は、高かったと思うなら、旅行そのものを後悔しなければならないように感じていました。
あるいは行ってよかったと思いたいなら、使ったお金をすべて正しかったことにしなければならないようにも感じていました。
けれど、人は一つの気持ちだけで生きているわけではありません。
行ってよかった旅を、高かったと思ってもいい。
大切な思い出の中に、次は変えたいことがあってもいい。
二つの気持ちに居場所を与えると、旅を正当化するか否定するかの二択から降りることができました。
複雑さが、私たちの選び方を教えてくれた
高かったという気持ちは、これからの暮らしや将来の安心も大切にしたいことを教えてくれました。
行ってよかったという気持ちは、今の家族でしかできない経験に、お金を使いたいことを教えてくれました。
怖かったという身体の感覚は、安全な移動や、疲れすぎない旅程が私には必要だと教えてくれました。
楽しかったという記憶は、私たち家族が何に心を動かされるのかを教えてくれました。
どれか一つだけを正しいことにしていたら、ほかの気持ちが守ろうとしていたものは見えなくなっていたと思います。
複雑だったのは、私たちが優柔不断だったからではありません。
将来の安心も、今しかない時間も、安全も、知らない世界へ行く自由も、どれも大切だったからです。
そこから、次の旅では、移動の安全にはお金をかけたい、すべての観光地を回らなくてもよい、予備費を設けたい、旅の途中でも残りの予算を確認したい、という私たちなりの基準が見えてきました。
選択基準は、失敗しない人だけが持てるものではありません。
実際に選び、感じ、違和感も喜びもなかったことにせず、次は何を残し、何を変えたいだろうと経験に聞いたとき、少しずつ育っていくものなのだと思います。
世間の正解ではなく、私たち家族に合う旅を、これからつくっていけばよい。
そう思うと、今回の20万円は、自分を責め続ける材料ではなく、これからの暮らしと旅を選ぶための経験へ変わっていきました。
正しい答えを探すのではなく、自分の経験から答えを育てる「問い」について、こちらの記事で詳しく書いています。
旅で出会った私たちを、日常にも連れて帰る
旅の間、家族は同じ場所へ向かい、同じ景色を見て、いつもより長い時間を一緒に過ごします。
つながりが、目に見えやすい時間です。
けれど日常へ戻れば、夫は仕事へ行き、息子は学校へ行き、私は私の一日へ戻ります。
家族がそれぞれの場所へ向かうと、旅の中にあったつながりまで終わってしまったように感じることがあります。
けれど、別々に過ごすことは、関係がなくなることではありません。
朝に見送り、夜にまた会うこと。
違う一日を過ごし、それぞれの経験を家へ持ち帰ること。
同じ家の中で、安心して別のことをしていられること。
それも、旅とは違う形で続いている家族のつながりです。
コスタリカから帰って、息子が育てたとうもろこしや人参を収穫しました。

遠い国の雲霧林を歩いていた私たちが、今は北海道の家で、土から届いた小さな夏の恵みを囲んでいる。
旅と日常は、反対側にあるものではないのかもしれません。
知らない世界を家族で経験できたことも、帰る場所でそれぞれの暮らしを続けられることも、同じ人生の中にあります。
怖くなっても、家族は敵にならなかった。
間違えても、人とのつながりは失われなかった。
不安になっても、現実を確かめ、もう一度楽しさへ戻ることができた。
それらは、コスタリカでしか存在しなかった私たちではありません。
旅によって、私たち家族の中にすでにあったものが、見えやすくなったのだと思います。
旅で出会った自分や家族との関係を日常にも存在させるとは、特別な楽しさを再現し続けることではありません。
あの旅で確かにあった安心やつながりを、帰ってきた途端になかったことにしないことです。
そうすると、次の旅までの時間も、旅がない空白ではなくなります。
今の暮らしとつながりを育てながら、家族の物語を続けていく時間になります。
自分を信頼するとは、間違えないことではありませんでした
以前の私は、自分を信頼するとは、
私の選択は正しい
きっとうまくいく
と信じられることだと思っていました。
けれど今回の旅で、別の自己信頼があることを知りました。
間違えるかもしれない。
使いすぎるかもしれない。
怖くなり、余裕を失うかもしれない。
それでも、自分まで自分の敵にならない。
何か起きたときに、責めるだけで終わらず、
怖かったね。一緒に見てみよう
必要なら、ここから考え直そう
と言ってくれる自分がいる。
そして自分だけでは抱えられないときには、隣にいる人と一緒に考えてもいい。
自分に戻ることは、一人で何でもできるようになることではありません。
安心の中で自分の感覚を取り戻し、もう一度、人とつながり直せることでもあるのだと思います。
失敗しても自分に戻れる「安心」については、こちらの記事にも綴っています。
何が起きても、自分だけは自分を置き去りにしない
あの旅で私が取り戻したかったのは、お金を使っても平気な自分ではありませんでした。
怖さをなくすことでも、すべての支出を正しかったことにすることでもありません。
怖くなっても、選択を間違えたと思っても、
大丈夫。一緒に考えよう。
と言ってくれる自分。
すべてを管理できなくても、現実を確かめ、人と相談しながら、また選び直していける自分。
人は、本当は安心したい存在なのだと思います。
安心できたとき、人はようやく、怖がっていた自分を責めずに見られるようになります。
そして自分を見るまなざしが変わると、余裕を失っている誰かのことも、困った人ではなく、何かを大切にしようとしている人として見られることがあります。
安心すると、まなざしが変わる。
そのまなざしが変わると、自分との関係も、人との関係も、人生との関係も、少しずつ変わっていく。
旅が終わっても、あのとき見つけた家族のつながりと、経験から育った選び方は、今の暮らしの中に残っています。
次の旅は、失った何かを取り戻すための旅ではありません。
今ここにある暮らしとつながりの続きを、家族で新しい場所へ運んでいく旅になるのだと思います。
私は、間違えないから大丈夫なのではない。
間違えたときにも、私が私を一人にしないから大丈夫。
そして、ときには誰かが、私と一緒に考えてくれる。
私にとって自分に戻るとは、そんな自分や人との関係を、もう一度信じていくことなのかもしれません。
同じ旅で気づいた間違えても人とのつながりを失わない自由については、こちらの記事に綴っています。
自分に戻ることは、正しい答えを見つけることではなく、まだ分からない自分のそばにいられることから始まります。
間違えない答えより、自分と一緒に考えられる安心を
私はどうしたい?と聞かれても、すぐに答えが見つからないことがあります。
自分に戻るLINEリチュアルでは、答えを急がず、自分の小さな感覚に気づくための問いを毎週お届けしています。
怖さや迷いを追い払うのではなく、今の自分と一緒に次を考えてみたい方へ。
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